史跡・その他

伊舎堂前の三本ガジュマル

伊舎堂の集落は、かつては中城城跡の近くにありました。しかし、時代ははっきりしませんが、何らかの理由により現在の地に移動してきました。一説によると、この三本ガジュマルは最初に移動してきた三組の夫婦が、それを記念して植えたと伝えられています。現在の木は戦後植え変えたもので、三代目だということです。
<村指定史跡>

伊舎堂前の三本ガジュマル

花の伊舎堂歌碑

思ゆらば里前 島とまいていもれ 島や中城 花の伊舎堂 「思いがあるのなら郷里を訪ねて来てください。出身は中城の、花の伊舎堂ですから……」中城を詠んだ琉歌のなかで最も有名で、かつ広く親しまれている歌の一つです。若い娘の素朴な恋心が、飾り気なく大らかに表現されています。
歌碑は、1959年に琉球政府文化財保護委員会によって建立されたもので、国道329号沿いにあります。揮毫は歴史研究家の東恩納寛淳によるものです。

花の伊舎堂歌碑

台グスク(久場)

中城城跡から数百メートル東方にあるグスク。護佐丸以前に中城を統治していた按司(先中城按司)の居所とも伝わっていますが、詳細は不明です。現在は一般にデーグスクと称し、「台城」という漢字が当てられていますが、『琉球国旧記』(1731年)には「泰城」と記されています。
この一帯は、中城村で最も高い位置にあり、標高は170mを超え、西海岸だけでなく、遠く伊江島までも一望できる絶景の地となっています。琉球王国時代には伊舎堂村に属し、そこにはダイ森ノ御イベとミツ物ノ御イベの2神があり、大城ノロによって祭祀が行われていたようです。

台グスク(久場)

護佐丸の墓(久場)

15世紀ごろ活躍した中城按司・護佐丸(唐名・毛国鼎)の墓で、台城にあります。この墓は、護佐丸の死後、その子孫の毛氏豊見城家によって築かれたもので、護佐丸をはじめ第7代までの子孫の遺骨が安置されているといわれています。現存する亀甲墓としては県内で最も古い時代のもので、文化的にもきわめて価値の高い墓です。

護佐丸の墓(久場)

新垣グスク

新垣集落の後方にあるグスク。地元では単に御嶽と称するのが一般的です。この一帯は集落の重要な拝所になっており、新垣の嶽・ウチバラノ殿・ミージャーガー・ミー屋敷などがあります。『おもろさうし』には「新垣のねだかもりぐすく」と謡われるなど、古くから知られたグスクです。

新垣グスク

県道開削記念碑(新垣)

昭和9年10月、県道普天間与那原線(現在の県道35号線)の開通を記念して建立された碑です。当時、新垣集落は交通が不便で、道路の開通は長年の悲願でした。新垣出身の伊佐善俊などの努力が実を結び、昭和7年9月に起工、翌年4月に竣工しました。碑文は開通にいたる経緯を記すとともに、伊佐善則・善俊父子の功績を称える内容になっています。
<村指定史跡>

県道開削記念碑(新垣)

ペリーの旗立岩(新垣)

新垣グスクの北方にある琉球石灰岩の岩で、地元ではターチイシー(二つ岩)と呼ばれています。1853年に米国のペリー提督一行が日本遠征の途次、那覇に寄港し、本島を調査しました。この調査隊は那覇から西原、中城を経て、中北部まで踏査していますが、中城城跡の手前でこの岩に遭遇し、隊員が頂上に登って旗を立てました。それが旗立岩という名称の由来になっています。ペリーの『日本遠征記』にはその模様を描いたスケッチが収められています。
<村指定史跡>

ペリーの旗立岩(新垣)

喜石原古墓群

中城城跡の南西部に古来から比較的新しい現在の墓まで、数百基におよぶ古墓群があります。種類としては風葬墓、掘込墓、破風墓、亀甲墓など多種多様です。

喜石原古墓群

津覇の龕屋

龕(ガン)とは遺体を入れた棺を墓まで運ぶ輿で、地域によってはコーとも呼ばれています。かつて土葬が行われていたころは、大抵の集落が共同で保管していましたが、火葬が行われる現在では、ほとんど姿を消してしまいました。津覇には龕を保管しておく建物(龕屋)が保存されているほか、九年ごとに龕を塗り替える行事も今なお残っています。現在、龕屋に収められている龕は1998年10月に新たに作り替えられたものです。

津覇の龕屋

泊の大クワデーサー

地元の伝承によると、今から200年ほど前、首里王府から派遣されてきた中城間切番所の役人が任期を終えて離任するさい、懇意にしていた泊村の人たちとの別れを惜しんで植えたものだといわれています。近くにはシチャヌカーもあります。
<村指定天然記念物>

お問い合わせ先

このページのTOPへ